So-net無料ブログ作成

霊性を求めて - ロシアの修道院巡礼 [エッセイ]

 私たち正教徒一人一人に課された課題は、神の誡めを守り、キリストに従って、天の国に到達することであるが、日常生活の中でそれを完全な形で希求するのは難しい。この世の常識、理念が神の誡めの実行の障害になり、信者が悩むことも多い。そこで、より完全に神の誡めの道を歩もうとするのにふさわしい場として存在するのが修道院である。  修道士たちは修道院で、従順、清貧、貞潔の誓いをする。そしてさらに祈りをもっとも大切な仕事とする。  修道士たちは祈りを絶え間なく行う。祈りを行い従順の義務を果たしていると、最初に自分の醜さに深く気づく状態に到達し、自分を嘆く涙がこぼれる「涙の谷」をとおる時期が来るという。謙遜という状態である。聖書でも「心の貧しきものは幸いなり(マタイ五章三節)」とイエス・キリストが山上の垂訓の中で始めているように、謙遜は正教会での救いにとって善行の基盤、始めである。修道士たちの霊性はまさにこの謙遜から始まる(だから修道院に行って感じるのは、自身善行を身につけた修道士たちが私たちを見下すことがない、ということだ。)そしてこの涙は、ちょうど汚れたものを清める水のように、魂の汚れを清める。そして涙によって清まった魂に神の恩寵が注がれる時期が来た時、正教会でいう神の愛が人間の中に実現するのである。これが家族愛、友人間などの自然的な愛を超えた、神の愛に似た全ての人を愛する愛なのである。  わたしは洗礼を受けてからしばしばロシアの修道院を順礼し、特にセルギイ修道院とそのポドヴォリエを多く訪問し、修道士たちに魂の救いに関する貴重な話をうかがう機会を得た。そこで感じたことを少しつづってみたいと思う。    セルギイ修道院では創始者聖セルギイのことを皆「克肖者」と呼んでいる。「克肖者」とは修道聖人に対する称号で、大変善良なという意味である。彼等は絶え間ない心の静寂、祈り、痛悔(悔い改め)によって、欲望によって暗まされた神の像と肖を回復し、思いと感情と行いにおいて神に似たものとなった。正教会では人間が創造されたときに神の像と肖に似せて、つまり神の似姿を持った者として創造されたとい言う。像は失われることがないが欲望と罪によってくらまされる可能性があり、肖は善行によってさらに増していくことができるものである。 聖セルギイは母の胎にいた時からその奇跡で神に特別に選ばれた者であることを示した大聖人である。両親もその善行で崇められ、共に聖人として列聖され、セルギイ自身もこの両親のもとで正教会の教える善行を身につけて育った。故にセルギイは自分の境遇、善行に誇りをもつプライドの高い人物となることもできたのであるが、セルギイ祭の祈りの中にはセルギイがやはり修行の中で痛悔の涙をこぼした、というくだりがある(十月八日聖セルギイ祭、早課の規定第四歌頌「光栄なるセルギイよ、爾は預言者の如く涙の滴(したたり)を以て日々に爾の褥(しとね)を潤して、慾の海を涸らし盡(つく)すに至れり」)。どんなに偉大な人物の霊(たましい)の中にも人類の陥罪の傷跡があり、その普段は見えない堕落した本性を神の恩寵によって直視したとき、自分を心より罪人と思う、深い謙遜と涙が生まれる。セルギイが到達したのはこの深い謙遜、そしてそこから生まれる温柔、愛であった。この謙遜と温柔と愛に満ちたセルギイの霊性は後にロシア正教会の多くの信者の霊的生活の模範となった。   すべての人間の中には神の像と肖があり、それが欲望によって暗まされているところに、人間の悲劇がある。概して言うと欲望は本来人間の魂の性質には備わっていない、付加されたものである。ただし怒りなどのように魂の中にもともと備わった欲望もあるが、これは本来罪に対して向けられるべく備えられたもので、人に対して向ける怒りとは、欲望の誤用である。そこで正教会の悔い改めと領聖(聖餐)、善行、祈りの生活の中でこの人間にとって不自然な欲望が清まれば、程度の差こそあれ、神の像と肖は次第に回復されていくものではないか。  ところでロシアに行き、ロシア正教会の中で教えを受けながら、私は必ずしもロシア人になることを強要されなかった。ロシアで生活するにはロシア人になることだ、ロシア人魂を獲得することがロシアに溶け込む一番の早道だと意気込んでいたのだが、それは必要なかった。指導者たちはわたしの中にある欲望(憎しみ、ねたみ、恨みなど)は否定したが、日本人の民族性を否定したわけではなかった。    正教会では各民族に神から与えられた、独自の役割と性質を大切にする。わたしたち一人一人が創世以来二人とないユニークな存在であり、個々人の霊(たましい)の中にそのユニークな性質が生まれた時から備わっているため、人の真似をしてそれをゆがめたり、崩したりするのは真の救いではないからだ。逆に、ロシア語でリーチナスチともいうこの個人の個性、人格、ユニークさを回復することに正教会の救いがある、とも教えられた。むしろ欲望や常識でゆがめられたり、暗まされたりした、リーチナスチ、神の像と肖を回復することで、本来の霊(たましい)の中に秘められた真の人間性、もしくは私達日本人の人間性というものが現れてくるのではないだろうか。ここでわたしは命をかけて神の像と肖を回復した聖セルギイの霊性がロシア正教会の霊性の一つの模範になった、ということを思い出した。 日本人の霊性と言っても究極的には霊性の源は唯一の神であり、正教性も、善行が全ての民族にとって同様であるように(それは神の戒めである愛に象徴される)時代、場所、民俗を問わず普遍的なものであるが、正教の土着化の中で各民俗らしい正教が生まれてくることも事実である。それは民族性に大きな影響を及ぼす気候、風土といったものから形成される民族の文化に象徴される。しかしそれとは別にまさに回復された魂にある霊と神聖神の交流の中からどの民族にとっても真の人間性が生まれてくるものではないか、と思う。そのなかで、段々と、外国の模倣、外国のキリスト教「文化」の受容だけでおわらない、日本の霊性が生まれてくるだろう。   救いにいたる霊的生活はもっとも難しい学問中の学問、「天の学問」で、指導者の導きなしには歩むのが難しいものだ。ロシア正教会も長い間ギリシャ人から救いの道を学んだ結果、独自のロシアの正教性を生みだした。我々もまだまだ外国の修道の伝統、経験を積んだ修道士から学ぶことが多いだろう。    わたしは一連の旅で、修道士の謙遜から愛にいたるまでの修行の道と霊(たましい)の回復について聞き、日本人の霊性というテーマにも思いをはせるようになった。    世俗の中で暮らしていても課題は同じである。神の戒めを実行し、欲望を清め、謙遜や温柔や愛の徳を身につけて、救いに達成し、自分の神の像と肖を回復すること。この修道士が命をかけて辿る道からすこしでも教訓をもらい、救いに到りたい。そして、今は欲望に暗まされて見えない、神から創られた本当の自分は誰なのかを知りたいと思う。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(1) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 1

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。