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聖大ワシリイ「隣人への愛」 [キリスト教]

ハリストス(キリストのギリシャ語、ロシア語読み)の弟子の特徴はハリストスにおける相互愛である。 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(イオアン(ヨハネ)13章35節)  人間が穏やかで社交的な存在で、独りぼっちの粗野な存在ではないことを知らない者がいるだろうか。互いに交わりを持ち、互いを必要とし、同胞を愛するということほど私たちの天性に固有のものはない。  主ご自身が私たちの内に予め種を植え付けられ、その種から後に実を私たちに要求している。「新しい戒めを貴方がたに与える、互いに愛し合いなさい(イオアン(ヨハネ)13章34節)。そして私たちの魂をこの戒めへと奮起させようと、主の弟子である証拠として、非凡なる印や奇跡を要求したのではなかった。逆にこう言っている。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。このようにいたるところでこれらの戒めが結合されるのである。故に隣人へ恩を施すことは主ご自身に恩を施すこととみなされるのである。何故ならこう言われているからである。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせた。」次に付け加えている。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マトフェイ(マタイ)25章35節、40節)  つまり、第一の戒めを実行することにより、第二の戒めに進歩し、第二の戒めを実行することにより再び第一の戒めに戻るのである。主を愛する者は、隣人をも愛するのである。主は言っている。「わたしを愛する者は、わたしの戒めを守る」(イオアン(ヨハネ)14章23節)と。また主は言っている。「わたしの戒めとはこれである。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(イオアン(ヨハネ)15章12節)。ここでもまた隣人を愛する者は、神への自分の愛を続けるのである。何故なら神は隣人への彼の憐れみをご自分への憐れみとして受け取るからである。  では互いへのどのような愛を持つべきであろうか。「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさ。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(イオアン(ヨハネ)15章12-13節)と言った主はなんという愛を示し、なんという愛を教えたのであろうか。もし命を捨てることが必要なら、単に人間的義務の実行からではなく、神を喜ばせるという目的をもった実行によって、一人一人の兄弟の利益に全ての面において熱意を示す必要があるのはなおさらである。  誰が主の戒めによって兄弟を愛しているか何からわかるだろうか。誰がそのように兄弟を愛していないか何によって明らかになるだろうか。  愛には二つの顕著な手段がある。愛する者が損害を堪えているのを悲しみ、苦しむこと。同様に愛する者の利益のために喜び労することである。故に罪を犯したがために恐ろしい危険に陥っている者のために泣く者は幸いである。そして良い行いをして、そのために書かれているように比類ならぬ利益を得ている人のために喜ぶ人も幸いである。使徒パウエル(パウロ)がこのことを証して言っている。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ」(第一コリンフ(コリント)12章26節)疑いなくハリストスの愛の掟によるのだが、「一つの部分が尊ばれれば」神を喜ばせる目的であることは顕著だが、「すべての部分が共に喜ぶ」のだ。このような心持を持たない者は兄弟を愛していない明かなる模範である。  ハリストスの愛を理解することは自分自身のものを想像することを各人に許さない。何故なら言われているからである。「愛は自分の利益を求めない」(第一コリンフ(コリント)13章5節)全ての人々と隔離された生活は一つの目的を持っている。各人が自分の要求に仕えてくれることである。これは使徒が実行した「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めた」(第一コリンフ(コリント)10章33節)愛の掟に反する顕著な模範である。  主の旨に沿って兄弟たちの必要について配慮する心持を持たねばならない。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マトフェイ(マタイ)25章34-36節)そしてそのあとすぐに、(40節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」  憐れみ深く寛大でなければならない。そのようでない人は裁かれている。 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マトフェイ(マタイ)5章7節) 「もとめる者には、だれにでも与えなさい」(ルカ6章30節) 「無情、無慈悲です。このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら」(ロマ(ローマ)1章31-32節) 「物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」(第一ティモフェイ(テモテ)6章18節)  同等の名誉をお互いに示すという点で子供たちに倣わない者は天国に入ることは不可能である。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マトフェイ18章3節)。   全ての人に対してあらゆる憎しみから清まったときは敵をも愛さねばならない。友の為には、それが必要なら、私たちに対して神とハリストス(キリスト)が抱いている愛を抱きつつ、命をも捨てなければならない。 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛しなさい」(マトフェイ(マタイ)5章43-44節)。すぐそのあとで、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)。  (イオアン(ヨハネ)3章16節)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(15章12-13節)「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」  (ルカ6章35-36節)「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」  (ロマ(ローマ)5章8節)「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」  (エフェソ5章1-2節)「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」

全てのことにおいて自分を小さくしなさい。 [パイーシー長老]

「長老、私が罪を犯す時、他の人々が私にそれを警戒させることもできたかもしれないと見てとると、彼等にクレームをつけてしまいます。」 「個人的な要求を改めるという問題では自分自身に対してだけクレームをつけなければなりません。あなたはただ要求だけがある小さな子供のようにふるまっているでしょう。」 「いったいいつわたしは成人するのでしょう。いつわたしには義務もあるのだということが分かるのでしょう。」 「自分が小さく成る時です。つまり謙遜と愛を育てる時です。」 「師父イサアクは書いています。『全ての人々の前で全てのことにおいて自分を小さくしなさい』と。どのようにこれに到達することができるのでしょう。」 「謙遜な心持によってです。家庭や修道院で霊的完成における競争心があり、一人が他の人の前で遜る時、一人一人がこのことから利益を受けるのです。痛悔が公のものだった古代教会で公の痛悔から全ての人が利益をうけたのと同様に。遜る者は神から恩寵を受け、その後、他の人々を助けます。謙遜なる心持は決して他の人を傷つけません。ですから謙遜な人には常に愛があるのです。」 「全ての姉妹よりも自分が劣っていると感じることを助けるものとは何ですか。」 「全ての姉妹よりも自分が劣っていると感じるためには、神があなたにどれほど多くの賜物を与えたかを考えなさい。あなたはそれを二倍に増やさなかった。自分に言いなさい。『わたしはただターランド(ギリシャ教会で鐘の代わりに使われる木の板)を打つことだけ学んで、自分の賜物は今のところ倍増することができませんでした』と。  人が自分を全ての人よりも劣る者とみなす時、最も低い所で天に上がるのです。私たちは何をしているでしょうか。自分を他人と比べて自分は彼等より上だという結論を出すのです。私たちは言います。『私はこの人やあの人よりすぐれている。私は彼のようではない』と。他の人が私たちよりも劣るという考えが私たちの中に吹きこまれるやいなや、私たちは神の助けに対して自分を閉ざしてしまうのです。」 「長老、私が他人の善行を認める時、ここに謙遜はありますか。」 「もちろんです。もしあなたが善行のある人を尊敬して愛するのなら、あなたには謙遜があり、本当にあなたは善行を愛しているのです。霊的な進歩の印はさらに次のことにあります。あなたの内にある何か良いことを重要だと思わないで、他人の中にある最も小さな善をあなたの善よりはるかに高いものだとみなすことです。つまり他人の内にある善を常に評価することです。その時あなたに豊かな神の憐れみが下ります。ですから他人が自分より優れていると思う人は、より優れているのです。何故なら彼には神の恩寵があるからです。  全ての人に欠点があり、善行もあります。それは彼等が自分の両親から受け継いだり、努力によって獲得したりしたものです。有る人は10パーセント、有る人は30パーセント、他の人には60パーセント、また他の人には90パーセントという具合です。つまり各人から何か良いことを学び、利益を得、他人を助けることができるのです。一方ここに正教の精神性があります。私は小さい子供からも利益を受けます。ただ彼らがおごり高ぶって自分を害さないように、それを表現しませんが。」

神に謙遜を求める時はいやしめられることを覚悟しなければならない。 [パイーシー長老]

「長老、実際的な謙遜を得るためには何が助けになるでしょう。」 「どのように謙遜を得るというのですか。ほんの小さな非難も耐え忍んでいないじゃないですか。親愛なるものよ、お分かりでしょう。謙遜になる機会が与えられている時は、遜りなさい。  あなたの薬は地のように単純に謙遜にふるまうことです。つまり、もし自分の欲望から解放されたいのなら、雨も雹もごみも痰も受け入れるのです。他人からうけるいやしめはもし、人がそれを受け入れるのなら、早く自分の古い「我」から解放されるのを助けます。」 「長老、私には多くの謙遜が必要です。」 「行って買ってきなさい。もしあなたがこのことを望みさえすれば、謙遜を売っている、それどころかただであげる人たちがたくさんいます。」 「長老、それは誰ですか。」 「それは良い霊的な心持を持っておらず、私たちに対して粗野に対し、その行動で私たちをいやしめる人々のことです。謙遜は商品のように食料品店で買うことはできません。私たちが『神よ、私に謙遜を与えて下さい』と言う時、神がスコップをとって、各人に『あなたに謙遜を一キロ、半キロ』とふんだんに分け与えるということを意味しているのではありません。神は粗野な人を登場させ、彼らが私たちにたいして厳しく接するようにしたり、他人から恩寵を奪って、この人が私たちを悲しませたりするようにしむけるのです。これは私たちにとって試練となります。もし謙遜になりたいのなら、努力しなければならないのです。しかし私たちは、これは神が私たちの利益のために兄弟をわたしたちにたいして悪くなるように取り図られたとは思わないのです。神に謙遜を願いますが、神が謙遜のために予め私たちに用意された適当な機会を利用せずに、困惑して憤るのです。良く言うと、私たちを謙遜にさせる人に対して感謝をしなければなりません。何故なら彼は私たちの大変な恩師だからです。祈りのうちに謙遜を神に求めながら、神が謙遜のために彼に送られた人を受け入れない人は、何を求めているか分からないのです。  わたしがストミオンの修道院にいた時、コニツャに一人の聖職者が住んでいました。彼は私がまだ一般信徒だった時から大変私を愛してくれました。ある日曜日に私が聖体礼儀にコニツャに行ったときのことです。教会には多くの民衆がいました。私は常のように、至聖所に行き、入る時心の中で、「我が神よ、全てこれ等の人々を天国へ入れ給え。一方私には、もしお望みなら天国の小さい一角でいいから与えて下さい。」と言いました。領聖の時が近づくと、いつもならわたしを至聖所の中で領聖させる聖職者が私の方を向いて大声で言いました。「至聖所から出て、最後の教衆たちと共に領聖しなさい。おまえは相応しくないからだ。」私は一言も言わずに至聖所から出て聖歌隊席に立ち、領聖予備規定を読みました。最後に領聖に就くと私は心の中で言いました。「神はこの聖職者を照らし、わたしが実際に有るべき姿を私に示して下さった。主イイスス・ハリストスよ、家畜なる我を憐れみ給え」領聖するや否や、私は内的に偉大なる甘美さを感じました。神聖なる聖体礼儀が終わった時、聖職者が砕けた心で私の方に近付いてきて言いました。「私を赦してくれ。どうしてこういうことになったのだか分からないんだ。わたしはいつだってあなたの前に自分の子供やマートゥシュカ、自分でさえもおかないのに。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。」聖職者は私に向かって地面に服拝し、赦しを請いわたしの手に接吻しようとしました。わたしは言いました。「神父様、心配なさらないでください。悪いのはあなたではなく、私です。神は私を試みるために貴方を利用したのです。」聖職者は私が彼に行ったことが分からず、思うに私は彼をそれほど確信させることができませんでした。起こったことの原因は私の祈りだったのです。  ですから貴方達もだれかの姉妹が我を忘れてあなたにぶっきらぼうに話したのを見たのなら、多くの場合この原因は祈りだとういうことを知りなさい。あなたが神に謙遜を求めたので、神はしばらくの間姉妹から恩寵を取り、あなたを卑しめ、がっかりさせたのです。このようにあなたには謙遜と愛の試験に受かる機会が用意されているのです。もし遜るなら利益を得るでしょう。姉妹に関して言えば、彼女は二倍の恩寵を得るでしょう。第一にあなたを試みるために一時的に恩寵が取られたこと。第二に自分の罪を見て彼女は遜り、神に赦しを求めることです。ですからあなたも謙遜を耕しなさい。彼女は良くなりますよ。

妬みと競争心を持ってはいけないことについて

シリアの聖エフレム 妬みと競争心に害されないものは幸いである。何故なら競争心と妬みは互いに支え合い、そのうちの一つの悪徳があれば両方があるからだ。ゆえにこの悪徳に陥らず、それらのうちの一つに傷つけられない者は真に幸いだ。何故なら不正にも自分の兄弟と競争する者は悪魔と共に裁かれるからだ。競争するものは打ち負かされたのである。つまり彼の中には敵意があり、彼を他人の成功が悲しませる。妬みと競争心のない人を他人の成功が悲しませることはない。他人に名誉が与えられても、彼は困惑しない。他人が高められても、彼は不安にならない。何故なら全ての人に優越を与え、全ての人を自分より優れていると思うからだ。自分一人を不当なるもの、全ての人の中で最後の者と思い、自分以外の人々全てを自分よりさらに優れた、よき人々と思う。妬みを持たない人は名誉を貪ることなく、喜ぶ人と共に喜び、光栄なる行いを自分に帰すことなく、成功する人を助け、善良な道に行く人々を喜びを持って見、しかるべく生きている人をほめる。もし兄弟が自分の行いを良くしているのなら、彼を妨げず、逆に自分の助言によって彼を助ける。もし誰かが安息を貪っているなら、彼に罪を着せず、彼が道を修正するように支える。もし兄弟が過失に陥ったなら、彼をけなさないで、しかるべき助言を与える。もし怒っている人を見たなら、彼を苛立たせないで、愛をもって和らげ、平和に傾かせる。もし悲しんでいる人を見るなら、彼を軽蔑しないで、逆に彼に同情を示し、魂に有益なる言葉で彼を慰める。もし学のない、無知な人を見れば彼に教えを施そうと急ぎ、有益なる道に導く。もし何も知らない人を見れば、妬みなしに彼によき道を示す。もし聖詠経の朗誦の時に眠っている人を見れば、彼を起こそうと努める。端的に言えば、妬みのない者、自分の内に競争心を持たない者はどのような業においても隣人を侮ったりせず、逆に他人のあらゆる成功とあらゆる称賛すべき行為を妬むことなく喜ぶ。  一方妬みと競争心にとらわれている人は不幸だ。何故なら彼は世に死をもたらした(ソロモンの知恵書2章24節)悪魔の共同者だからだ。妬みと競争心の有る人は全ての人に対して敵対する。何故なら自分が他人より優れていることを欲するからだ。称賛に値する人を彼はいやしめ、善良なる道に行く人を誘惑の道へと誘い、しかるべき生きている人を非難し、敬虔な人を厭い、斎をする人を虚栄心があると言い、聖詠経の誦読に励んでいる人を自分を誇示したい人だと言い、人に素早く親切を施す人を哀れな人と言い、行いに早い人を名誉欲がある人だと言い、読書に熱心に励んでいる人を怠惰な人と言い、的確に答えをする人を腹を肥やす者と言う。妬みを持っている人は決して他人の成功を喜ばない。若しも行いに怠慢な人を見ても彼を奮起させず、すぐに彼を悪い道に連れて行く。祈りの時に誰かが眠っているのを見ても、彼を起こそうとせず、静けさを守ることをより重んじる。もし兄弟が安息を貪っているのを見ても、彼を指摘しようとは思わない。もし兄弟が堕落したのを見ると、全ての人の前で彼をけなす。妬みがある人は不幸だ。何故なら彼の心は常に悲しみで弱り、体は青白く、彼の力は衰えるからだ。全ての人にとって彼は堪えがたい。彼は全ての人にとって敵で、全ての人を憎み、全ての人の前でおべっかをつかい、全ての人に対して罠をしかけ、あらゆることの前に仮面をつける。今は有る人と仲良くするが、明日は他人と仲良くし、あらゆることに対する心持も変化する。一人一人の願望に取り入り、少し経つと全ての人を裁き、他人の前である人をけなし、人間関係をもつれさせる。このように恐ろしい毒であるのが妬みと競争心だ。ここから中傷や、憎しみや殺人が起こる。故に天上の市民の兵士たるあなたは妬みから遠く離れなさい。自分を競争心と妬みから遠ざけなさい。悪魔と共に裁かれないためである。

傲慢と謙遜

スヒマ典院イオアン(アレクセーエフ) ある賢明なる長老が傲慢な兄弟を教えさとしたが、兄弟は長老に答えて言った。「お赦し下さい神父様、私は傲慢ではありません。賢明なる長老は彼に反駁して言った。「私は傲慢ではないと言う程、あなたが傲慢なことをはっきりと証明しているものがあるだろうか」と。  実際、盲目的な傲慢は自分自身でも見えない。傲慢は悪魔の発明である。その所産とは次のようなものだ。怒り、中傷、いらだち、おべっか、憎しみ、反駁、不従順、自分の意見にかたく固執すること。他人に服従し難く、指摘も受けられない。一方人の指摘をするのは好きで、言葉を発する時、無意味な発言をする。傲慢は忍耐ができず、愛とは相いれないもので、不遜にも悲しみを与え、権威を志向する。傲慢なものは神を罵る考えに大変悩まされる。聖師父の教えの基盤から簡単に記述した。  では今ここで謙遜についてお伝えしよう。ああ、福たる謙遜よ、汝は神聖なるものだ。何故なら天を傾けて、人類に籍身し、全世界の罪を十字架に釘付けたからだ。私の魂は震えおののく。いかにあたなの偉大さを述べ伝えることができようか。  神智なる聖師父は次のように謙遜について述べている。謙遜から出てくるもの。温柔、愛想、慈愛、憐れみ、静けさ、従順。謙遜な者は悟りがたきことに対して好奇心を持たず、傲慢な者は神の定めの深みさえも究めようとする。謙遜な者は天性の賜物を誇らず、人々の称賛を厭う。ちょうど絹の衣を着ている人が、もし彼にタールをはねかしたら、彼の高価な衣にはねがあがらないように飛び退くように、謙遜なものも人々の称賛を避ける。謙遜の特徴は自分の罪を見、他人には良い性質を見ることだ。傲慢の特徴とは自分の中にただ良いものだけを見て、他人には悪いものを見ることだ。  さらに謙遜の特徴がある。単純さ。隠しごとをしない開放性。そして自然さである。一方謙遜とは何か、そしてそれはどのように魂の中に生まれるかということは、もし人が経験から学ぶのではない限り、誰も言葉で説明することはできない。  師父ゾシマは謙遜について語っていた。そこに学問のある智者が聞いていて、長老に言った。「あなたはどうして自分のことを罪人だと思うのですか。あなたはあなたが聖なる人であることを果たしてしらないのですか。果たして善行があなたにあるということを知らないのですか。何故ならあなたは戒めを行っているのをご自分で見ているではありませんか。それでも自分を罪人だと思うのですか」と。長老は言うべき言葉を見つけられずにただこう云った。「何をあなたに言うべきか分からないが、自分を罪人だと思う」と。智者はどうしてそのようなことがあるのか知りたいと主張した。その時長老は言うべき言葉を見つけられずにその聖なる単純さから言った。「私を困惑させないでください。わたしは本当に自分をそのように思うのです。」  そこに師父ドロフェイがいて、智者に学問にもある主の習慣があって説明が不可能なように、謙遜においても同様なのだと説明した。「師父ゾシマは私を抱きしめて言った。『あなた事を悟った。それは貴方が言った通りである。』智者は満足して我々に同意した。」  多くの事の中からわずかしか書かなかった。より多く、詳しく知りたい人は「フィロカリア」を一読することをお勧めする。

謙遜な者に神の霊が宿る [パイーシー長老]

「神の恩寵が人を覆うためには、どのような善行を持つ必要があるか話してください。」 「謙遜があればそれだけで十分です。わたしはしばしば次のように質問されます。『神の恩寵を得るためにはどのくらいの時間が必要ですか』と。有る人々は一生あたかも霊的に生きて苦行しているかのようで、しかしその際に自分をひとかどの人物かのように思います。このような人は神の恩寵を得ることはできません。他の人々は短い時間で恩寵を得ます。何故なら遜るからです。  もし人が遜るならば、恩寵は一瞬のうちに彼を覆い、彼を天使にするでしょう。そして彼は天国に入ります。しかしもしおごり高ぶるならば一瞬のうちに小悪魔となり、地獄にいることになります。人はもし望むなら羊になることもでき、もし望むならヤギになることもできます。かわいそうなヤギたちは羊になりたくてもなることはできません。しかし人に神はヤギから羊になる能力を与えました。もし人がそれを望むなら。  神の恩寵はただ謙遜で温柔な人にだけ下ります。そのような人には神の霊が宿ります。預言者イサイヤが言ったことを覚えているでしょう。「わたしが顧みるのはただ温柔な沈黙を愛するひとだけである」と(イザヤ書66章2節)  神が私たちに要求しているのは、我々が神との親戚関係に入るためのただ少しばかりの謙遜です。そしてそのあと神の全ての豊かな賜物は次から次へと我々に注がれることになるのです。なぜなら神はあたかも謙遜な人に大きな恩寵を与えなければならないかのようなのです。人が自分自身でそれを求めなくても、神は賜物として恩寵をその人に与えるのです。霊的な法則とはこのようなものです。はたして聖書にこのように書かれていないでしょうか。「神は傲慢なものに敵対し、謙遜な者に恵みを与える(ヤコブ4章6節)」このように神はお決めになったのです。「謙遜な者」とは「恩寵を有する者」です。つまり大変謙遜な者は大きな恩寵を神よりいただくのです。何故なら謙遜の者はスポンジのように自分の内に神聖なる恩寵を吸い込むからです。常に謙遜の性質をもっていて、他人からの打撃を受ける人は、自分を凸凹な状態からきよめ、霊的な美しさにおいて天使にも似たものとなり、天国の狭き門を自由に通り抜けるのです。だれもこの世的に上がることによっては天国に入れません。霊的に降りる(遜る)ことによって天国に入るのです。  謙遜は天の門を開き、人に神の恩寵がやってきます。一方で傲慢は天の門を閉ざしてしまうのです。チーホン長老は言いました。「一人の謙遜な人が、多くの人々が全体でもっているよりも多くの恩寵を持っていました。毎朝神は片方の手で世界を祝福しますが、謙遜な人を見ると両方の手で祝福するのです。謙遜をより多く持っている人は、全ての人よりも偉大なのです。」  すべては謙遜な心持にかかっています。人に謙遜な心持があるとき、その人にとって自然的に地は天と一体になります。謙遜な人々の中には鍵が見出されます。その鍵を回すと愛という霊的なエレベーターにのって第三の天にまで上昇するのです。何故これほどまでに神は私たちから謙遜を要求するのでしょうか。何度も言いますがもし人に謙遜がなければ、彼は天国の狭き門を通り抜けることができず、この世でも平安を得ることができません。ハリストス(キリスト)は言いました。「私は柔和で心の謙遜な者だから私に学びなさい。そうすればあなたの魂に平安を得るでしょう。(マトフェイ11章29節)」

謙遜な者には全ての善行がある [パイーシー長老]

「長老、お別れするに当たってお言葉を下さい。」 「何をあなたに言おうか。もう沢山話したでしょう。」 「あなたが帰ってこられるまで私たちが注意できるように何か話してください。」 「そんなにせがむなら話しましょう。一つの善行があります。それは謙遜です。あなたはこのことが分からないのでもう一つ愛を加えましょう。しかし謙遜が有る人に、はたして愛がないと思いますか。」 「師父イサアクが言っています。全ての食物に塩が必要なように、全ての善行に謙遜が必要だ、と。」 「つまり謙遜がなければ、善行は食べられるものではない、ということです。聖イサアクは善行を行う際にどれほどの謙遜が必要かを示そうとしています。」  「長老、他の個所で師父イサアクは、謙遜は人が全ての善行を手に入れた時にやってくると言っています。」  「もしかしたら、あなたは読み違いをしたのではないですか。もし人に謙遜がなければ彼はどのような善行にも近付くことはできません。」  「つまり謙遜を有した人は同時に全ての善行も有しているのですか。」  「もちろんです。謙遜な者は霊的な芳香のあらゆるよい香りを放っています。心の単純さ、温柔さ、際限のない愛、善良さ、悪意のなさ、犠牲、従順などです。彼には神(しん)の貧しさがあります(「心の貧しき者は幸いなり(マタイ5章3節)」)故に彼は全ての霊的な富を所有しているのです。もし彼が敬虔で沈黙を愛しているのなら、偉大な謙遜の持ち主だった至善なる生神女、処女マリアの類に属しているというということです。籍身した神をご自分のうちに保ちながら、彼女は答えました。「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように。(ルカ1章38節)」と。「私は神・子の母になります」とは言いませんでした。彼女はハリストス(キリスト)が30歳になって口を開くまで黙しつづけたのです。  生神女は婢でありながら同時に神の嫁でした。処女でありながら母でした。神の被造物でありながら、造物主の母でした。説明することのできないこの偉大な奥義はただ心で感じ取ることしかできません。」  「あなたは生神女のどのイコンが一番お好きですか。」  「わたしは生神女のすべてのイコンが気に入っています。どこかに彼女の名が書いてあるのを見ただけでも、何度も敬虔に接吻します。そして心は喜びで震えあがります。  深く熟考すれば恐ろしいことです。小さな少女が『我が霊(たましい)は主を崇め、、、、蓋しその婢の卑しきをかえりみたまえり』と言ったのです。数少ない言葉の中にこのような意味が含まれているのです。この言葉の意味を深く考えるなら、大きな利益を得ることができます。短いですが強いのです。もしこの言葉を究めるなら謙遜を愛するでしょう。そして謙遜になれば、あなたの中に神が到来するのをみるでしょう。この神はあなたの心をヴィフレエムの飼葉おけと変えるのです。

主は愛する者を鍛える   -  聖山アトスのパイーシー長老

「長老、何故人々は今日これほどの苦しみを経験しなければならないのですか。」 「神の愛からです。あなたは修道女で、朝早く起きて、自分の修道の祈りの規定を果たし、チョートキで祈ったり伏拝したりするでしょう。この世の人々にとっては、彼等が経験する困難が彼等の規定、彼等のカノンなのです。この困難や苦難の力をかりて人々は清まります。この苦しみは神へと近づけることも、天の口座に霊的な貯金を預金することも助けないこの世の慮りのない生活より彼等に大きな利益をもたらします。ですから人々は悲しみや誘惑を神からのプレゼントとして受け止めなければなりません。  善なる神は、神の子供たちが神へと立ちかえるために善良な父親として試練をとおして子供たちを教育します。神はこれを愛から、神聖なる善良さから行うのであって、悪意やこの世の法律上の公正さから行うのではありません。つまりご自分の被造物を救おうと願いつつ、彼等が神の天の国を受け継ぐことを願いつつ、神は人々に試練を許されるのです。神は、人が予め、戦いと苦行を自ら引き受け、痛みに耐えるという試験に受かるように、悪魔が「なんであなたは彼に報いを与えるのですか。どうしてあなたは彼を救うのですか。彼は労していないじゃないですか。」と言わせないように人々に試練を許されるのです。神はこの世の命のことに興味はありません。神が興味があるのは来世の命なのです。何よりもまず、神は私たちの来世の命について慮り、その後に始めて地上の命のことを慮るのです。  「長老、でも何故神はある人々には多くの試練を与え、他の人々には全く試練を送らないのですか。」 「聖書になんと書いてありますか。」『神は愛する者を鍛える』とあります。たとえばどこかのお父さんに八人の子供がいました。五人はお父さんと一緒に家に住んでいましたが、三人は家を出て、お父さんのことを忘れてしまいました。もしお父さんと一緒に住んでいる子供たちが何か罪を犯したら、お父さんは子供の耳をつかんで、首筋を打つでしょう。もし子供たちの聞きわけが良かったら、子供たちを可愛がり、チョコレートを与えるでしょう。一方お父さんから遠くに住んでいる子供たちは愛撫もお叱りもありません。同様に神も行うのです。神と共に生きる人々、善良な心もちを持っている人々は、もし彼らが罪を自分に許すなら、神からおしかりをうけゴツンとやられます。そして彼等は自分の罪の清算をするのです。もし神が彼等にもっと多くげんこつをくだせば、彼らは自分のために天の報いを積むことになるでしょう。一方神から遠く離れて住んでいる人々には神は彼等が悔い改めるように長き命を与えます。ですから、この世の人々が深刻な罪を犯しいても、物質的な富をふんだんにもっていたり、長い間悲しみを経験しないで暮らしていたりするのを見るのです。これは、これ等の人々が悔い改めるようにとの神の摂理によって起こります。もし彼らが悔い改めなければ、来世の命で彼等らは何も正当化されないでしょう。

「試練の十字架」  聖山アトスのパイーシー長老   


長老、私は絶えずあなたが祝福して下さった十字架を下げています。この十字架は困難の時私を助けてくれます。 「知っているだろう、私たち一人一人の十字架もこの十字架のようなものだ。それは私たちが肩から下げていて生涯私たちを守る小さな十字架に似ている。私たちがとても大きい十字架を下げているとでも思うか。ただハリストスの十字架だけが大変重いものだった。何故ならハリストスは我々人々への愛からご自身のためにその神聖なる力を用いようとされなかったからだ。一方十字架上での磔の後、ハリストスは一人一人の十字架の重みをご自身に引き受け、これからも引き受けて下さり、その神聖なる助けとその甘美たる慰めによって私たちの試練の痛みを軽くしてくださる。  善なる神は一人一人にその人の力に応じた十字架を与える。神は人間に人が苦しむ為ではなく、人が十字架から天に上がれるようにと十字架を与えた。十字架の本質とは天への梯子だ。試練の痛みを耐えながら、私たちが天の宝物庫へどのような富を納めているかを理解していたら、私たちは不平をこぼすことなく、自分に神が与えたこの小さな十字架を引き受けながら、神を讃美することだろう。このように行いながら、私たちはこの世の命ですでに喜び、来世の命では「霊的な年金」、「臨時手当」をもらうのだ。あそこ、天では私たちは神が私たちに用意された領地と分与が保証されている。しかしもし私たちが、神が我々を試練から逃してくれるように頼んだら、神はこの領地と分与を他の人に与え、私たちはそれを失うことになる。もしも私たちが忍耐したら、神は我々にさらに霊的な利子を与えることだろう。  ここで苦しむ人は幸いだ。何故ならこの世での苦しみが大きければ大きい程、来世の命での利益も大きくなるからだ。このことが起こるのは人が自分の罪の値を清算するからだ。試練の十字架は神が我々に与えた才能、賜物よりも上だ。苦しみまたは致命的な死によって清らかな報酬をいただくことができる。故に試練が有るたびに「我が神よ、あなたに感謝します。何故ならこれは我が救いにとって必要不可欠なことだからです。」と言おう。

正教会の痛悔(懺悔)の手引き

    我 多くの罪ある(自分の名前)は主・神、我等の救主イイスス・ハリストス並びに汝、尊貴なる神父に、我の人生の日々において犯し、今日に至るまで心に抱いたおよその我の罪とおよその我の悪行を痛悔す。  我罪を犯せり。聖なる洗礼の誓いを守らなかった。修道の誓いを守らなかった。全てのことにおいて嘘をつき、神の顔の前で不当なることを行った。  憐れみ深き主よ、我を赦し給え。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。 主の前で信仰を疑い、信仰と聖なる教会に対して敵(悪魔)が吹き込む悪い考えを排除しなかった。神の偉大かつ絶え間ない恩恵に対して感謝しなかった。必要もなく神の名をさげすんで呼び求めた。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  主に対して愛も畏れも持たなかった。神の聖なる意思と聖なる戒めを実行しなかった。ぞんざいに十字の印を切った。聖なるイコンを敬虔に扱わなかった。十字架を下げることを恥じた。十字の印を切ることや主を告白することを恥ずかしがった。 尊貴なる父よ、我を赦し給え。 隣人への愛を守らなかった。飢え渇く人を養わなかった。裸の人に着せなかった。病人や牢に閉じ込められている人々を見舞わなかった。神の戒めや聖師父の伝承を怠慢から学ばなかった。 尊貴なる父よ、我を赦し給え。 教会や家の祈りの規定を守らなかった。神の教会に怠慢から熱心に通わなかった。朝と晩や他の祈りをなおざりにした。教会での奉事の最中に無駄口をたたいたり、笑ったり、注意力を散漫にしたり、奉事の最中に教会から出たりした。 尊貴なる父よ、我を赦し給え。 あつかましくも生理中に神の教会に行き、聖品に触れた。 尊貴なる父よ、我を赦し給え。   神の祭日を敬わなかった。聖なる斎と斎の日(水曜日、金曜日)を破った。飲食に節制がなかった。食べ過ぎた。美食をたしなみすぎた。泥酔した。飲食、衣類に満足しなかった。従順をしているときに自分の意思と理性を実行して従順を与えているものに従わなかった。うぬぼれた。自己正当化した。両親をしかるべく敬わなかった。子供を正教の信仰で教育しなかった。自分の子供や隣人を呪った。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。不信、迷信、疑い、絶望、憂い、誓い、嘘、喫煙、賭博により罪を犯した。デマ、ゴシップを流した。生者を死者として記憶した。生きものの血を食べた。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  悪魔の力を呼び求めた。オカルトに走った。異端の教えを学んだり、異端に改宗しようとした。  尊貴なる父、我を赦し給え。  我罪を犯せり。傲慢により、また自分の意見に固執することにより、高慢により、過度の自己愛により、名誉欲により、妬みにより、思い高ぶりにより、猜疑心により、苛立ちにより罪を犯した。  我罪を犯せり。生者、死者問わず人を裁く罪により、悪口、怒りにより、恨みにより、憎しみにより、悪を持って悪に報いようという復讐心により、中傷により、非難により、狡猾により、怠りにより、人を騙すことにより、偽善により、悪評を流すことにより、論争により、頑なにより、隣人に譲り、隣人に仕えることを厭う心により罪を犯した。他人の不幸を喜ぶ心により、悪意、恨みを抱く心により、人におべっかをつかって出世しようとすることにより罪を犯した。首位を争う心と意地悪をして人を蹴落とそうとする心により罪を犯した。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。魂と体の感覚を節制しないことにより。魂と体の汚れ、淫欲なる考えを受け入れて楽しみ、すぐにそれと戦わなかった。淫欲なる執着により罪を犯した。つつしみを持たずに異性を見た。夢の中で淫欲によって己をけがした。夫婦生活に節制がなかった。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  病や悲しみを忍耐しなかった。生活の快楽を楽しんで、その虜となり、心を善行に対して頑なにした。善をおこなうことに自分をし向けなかった。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。自分の良心の声に注意を向けなかった。イイススの祈りの獲得に勉励しなかった。貪欲、金銭欲によって罪を犯した。不正な手段によって物、金銭を得ようとした。強奪、盗み、ケチによって罪を犯した。様々な物や人への執着によって罪を犯した。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。教会の主教職、聖職者を裁いた。霊的指導司祭の助言に従わなかった。不平をこぼしたり、聖職者に対して侮辱を感じたりした。神父の前で忘却や怠慢や、偽りの羞恥心から自分の罪を告白しなかった。  我罪を犯せり。憐れみの心がなかった。貧しい人々を軽蔑し、裁くことにより罪を犯した。神の教会に畏れと敬虔を持たずに参祷した。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。怠りにより。自分を甘やかすことにより。肉体的な安息を愛することにより。睡眠を貪ることにより。淫欲なる空想により。破廉恥な体の動きにより。淫欲をたしなむために体を触ることにより。姦淫により。自慰行為により。結婚前の性行為により。妊娠中絶により。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  我罪を犯せり。無為に時を過ごすことにより。無駄な会話を楽しむことにより。テレビに執着することにより。  我罪を犯せり。憂鬱により。臆病により。忍耐をもたないことにより。不平、救いへの絶望、神の憐れみへの希望を持たないことにより。無感覚により。横柄により。破廉恥により。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  隣人を中傷することにより。怒りにより。人を悲しませることにより。苛立ちにより。人を嘲け笑うことにより。和解しないことにより。敵意と憎しみにより。人の罪を見、探して、他人の会話を立ち聞きすることにより罪を犯した。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  痛悔での冷淡、無感覚により。自分の罪をあえて言わないことにより。自分を省みないで、隣人を責めることにより。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  命を施す聖なるハリストスの機密に、充分な準備と、自分の罪を嘆く心と神への畏れを持たずに就くことによって。  尊貴なる父よ、我を赦し給え。  言葉と思いとおよその感覚―視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚によっておかしし罪、意図すると意図せざるにより、知ると知らざるにより、理性をもつと持たずにより犯した罪を赦し給え。我の犯ししおよその罪、その数多きにより数え上げること能わず。然れども、我悔い改めの心をもって願う。今後一切神の助けをもって罪より身を守ることを。  汝、尊貴なる父よ、我を赦し、これ等のおよその罪を解き、我罪人の為に祈り給え。かの裁きの日に神の前で我の痛悔せし罪について証を為し給え。アミン
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